言葉に乱れも糞もないよね

takerunba卿のエントリ(本日のお疲れ様でした)見て、元エントリ辿ったら面白かったので横槍。


言葉に乱れなどないとうそぶく人が、まず真っ先に言葉の乱れを言い始めるハックルベリーに会いに行く



言葉なんて、時と共に変遷するものなのだし。
なぜ「古語」を研究しないといけないのかってのを考えれば自ずと分かるけど。
文法も言葉の持つ意味も少しずつ変化している。
そもそも、誰にでも通じる日本語なんてものは有り得ない。
大まかにしか伝えようがない。
ただし、それでは困る部分があるので、標準語を教育として決めたり、現代語をせっせと研究して教科書をバージョンアップしてるのだから。
言葉の意味も段々変わってしまうもの。
隠語として機能していた言葉が人口に膾炙してしまって辞典にのってしまったりするものなのだし。
正しさってのは当事者間にしか決められない。
送り仮名だって広めた者勝ちなのだし。
誤読・誤用もいつの間にか正しいことになるのだから。
閑話休題。

エントリの内容をみるとこうある。


この人は、言葉というものは単に「コミュニケーションの道具」であるという。

しかしこれは誤りだ。言葉は思考も司る。人間は言葉でものごとを考える。そしてその思考が、人格というものを形作る。

だから、言葉は人間の一部でもあるといえるのだ。人間にとって、言葉というのは存外に重い。


(中略)


この人は、「言語を道具として割り切ってるんですよ」と言う。そして「通じること、理解してもらうことが言語の目的なので、その手段に良いも悪いもねえだろうと」と言う。

この部分に関しては、ちょっと意味が分からない。道具であるならば、良い悪いがあって当たり前だ。「通じること、理解してもらうことが目的」なら、当然のように、「よく通じた言葉、よく理解してもらえた言葉が良い言葉であって、その逆が悪い言葉」ということになるだろう。

言語は思考の道具でもあるってのは正しいし、道具の善し悪しの下りも正しいだろう。
で、語るに落ちているのだけど、「道具と割り切っていて、通じればいいし、わかればいい」と言ってるのだから、揚げ足が取れてない。
当事者間のコミュニケートに問題が無いのならそれは「良い道具」だよ。



この人は「通じれば言語としては問題ないんだよな。間違っているもなにもない」と言う。それでいて、「自分がわからない言葉遣いを認めない狭量に問題がある気がするのはオレだけなのかな」と言う。

これは完全に矛盾している。「わからない言葉遣い」は「通じ」てないのだから、「問題」視するのは当然ではないか。

なぜこういう矛盾が起きたかと言えば、この人は単純に若者の側にだけ立って、自分たちの正当性を主張しているからだ。それを聞く方の気持ちは、これっぽっちも考慮してない。なんのことはない、単に世間知らずな、思い遣りのない、浅はかな人間の物言いなのだ。

結局のところ論点がまるで違う。
言語の問題は画一化して論じれるような「軽い」問題じゃない。
エントリ主が自らも「人間にとって、言葉というのは存外に重い。」と語っている様に。


正しさってのは時代と場所、あとは状況によっても左右される。
今現在、私の常識では、儀礼的な空間でスラングを話すのは馬鹿としか言えないが、それも時と場合によっては問題ないかもしれないし、時が経てば私の常識も変わる可能性がある。
あなたの知らない方言で喋るのは「わからない」から「乱れた日本語」ですか。



こういう人間が、いざ自分が「わからない」側に回ると、まず真っ先に「日本語の乱れ」を言い始める。もともと言葉を軽く扱ってる上に、自分の都合しか頭にないから、前言を翻すのは朝飯前だ。

さて、自分の都合しか頭にないのはどちらでしょうか。


本当にお疲れ様でした。