考える葦たれ

池田先生のところグーグルでバカになる?ってエントリを読んでの雑感。

知識の断片化が進むという指摘は至極もっとも。

自分自身もネットを利用するようになってから、断片化していて体系立っていない知識が多くなっている。

ただし、詳しく知りたいと思った情報や知識は体系立てて識る為に読書をしたり、さらにネットを調べる様にはしている。

お陰でネット登場以前よりも知識の裾野は広がり、ある分野においてはネットに溢れる数多の情報の玉石が見分けられる様になったかなとも思える。

記憶力の減退に関しては個人的な観測では明らかに減退しているが加齢による記憶力の衰えとの判別が付かないので分からないとしか言いようが無い。

知能の平板化に関しては「考える」事を放棄する人は確かにそうなるのだけど、「考える」事が苦でないのならば今までよりも知識を増やす機会が多い分考える事に回す時間が増えて高度な知恵を得る事が出来る様にも思う。

ただ、ネット登場以前の世界とは違い、ネットに溢れる情報は玉石混淆で以前に紙から得ていた知識よりも石が多い様なものなので、玉石を見分ける為のリテラシが必要である事は確か。

結局、初等教育が物を言うのでは無いのだろうかと感じる。

それに、深い思想や芸術はネットとは住み分けるだろう。

芸術などは、今のように大衆に支えられるのでは無く、昔の様に経済的に余裕のある人が囲って芸術を芽吹かせるように戻るのかも知れないし、他の方法で生き残るのかも知れない。

芸術は時代に拠って形を変えて続いているのであり、これからもそうなるだろう。

思索も連綿と続いていて所謂文系的な情緒にのみ重点を置いて論じるような学問体系は廃れるのかもしれない。

しかし、それは池田先生が危惧されているような愚衆化ではなく、変化であろう。

ケータイ小説なんかはケータイでしかネットに触れない人々であり、これはネット以前からいたクラスタが肥大化・顕在化しているだけだと思う。

ただ、googleからクロールして得た知識をそのままコピーして自ら考えず自らの意見としてしまう危険性はある。

自戒を込めて「考える葦たれ」と締めよう。