報道、視聴者の視点
twiiterでつぶやきながらぼんやり思ったことのメモ。
昨日、秋葉原で重大事件が起きた。
仕事中に垂れ流されているテレビではその事件報道ばかり。
事件背景や犯人背景、周辺の人々のインタビューなど。
事件の概要を委細に伝える事は確かに必要なのだろうし、何より視聴者のニーズとして視聴率に跳ね返ってくるのだろう。
しかし、その報道に掛ける時間的、人的コストが大きすぎるのではないだろうかと思う。
重大事件の概要をあまりに委細に報道すれば模倣犯がでるだけでは無いのかと。
比べるものでは無いが、量的影響だけを考えれば移民を促進する為の議員連が発足した事の方がよほどこの国の未来には影響が大きい。
凄惨な事件の被害者は確かに「かわいそう」で同情に値するんだけど、そこで思考停止して如何に「かわいそう」かという所を掘り下げる事にコストを支払う事で国の未来を見据えた視点がなおざりになるのはどうしようもない。
加害者は許されざる者で厳しく糾弾すればよいのだけど加害者の背景や特殊性に注目して耳目に心地よい偏見を産み出すことに注力しているようで、これも解せない。
社会的な背景に着眼して加害者の背景の普遍性や社会的な問題点を浮き彫りにするならば意義はあるのだろうが、個人的な観測範囲でそのような報道には出会っていない。
ニュースの重み付けみたいなものが多分されていてそれに従って放送時間なり紙面なりの配分が決められているのだろう。
それは果たしてどのような方法でされているのだろう。
視聴者のニーズとして視聴率を元に決められているとするならば視聴者側のリテラシの問題でもある。
しかし、当初はそうであったとしてもマッチポンプ式にニーズは偏りを始める。
日本人の議論はどうも情に訴えかけるところに傾きすぎるきらいがあるように感じる。
それは美徳でもあるのだろうけど、「かわいそう」な人を助けることは正しいという前提がまずあってその方法に乗っているものを阻害したり批判するのは悪いことという図式から抜け出せなくなる。
事件報道にしてもこの図式があるのだと思う。
そして悪は異常であるという安心を得るために、その異常性を強調する為の後追い報道が続く。
しかし、それでは解決や改善の機会をみすみす損失しているだけでは無いのだろうかとも思う。