手段の妥当性

休日、休前日になると繁華街には募金をつのる人々が多量に発生する。

彼らは老若男女悲喜交々でそれぞれの正義に基づいて募金を呼びかけているのだろう。

しかし、目的を達成する為の手段としてそれが妥当かどうかの検証が抜け落ちているのではと考える。

支払うコストの使い道として道端で募金を訴えかけるよりも、その時間を労働に費やして賃金を得てそれを募金とする方が良いのではないかと思う。

今ならば広報の手段としてインターネットもある。

世間に広く知らせる事が大事なのかもしれないが募金の内容を明示しないような呼びかけが多すぎてそれも良くわからない。

募金が妥当であるかどうかの判断をするためには募金をする側に情報開示されている必要が不可欠であると思う。

使途が明確でなければ無価値と断じても良いとさえ思う。

たとえば、募金を募るために事務所を構え、広報を置き、情報を喧伝するためにパンフレットやホームページを作成し、会計を透明にする努力を欠かさないとするならば、それにはかなりのコストが必要で、周辺コストの増大を考えると、やはりそこに従事する人々が個別に募金をする方が良いように思えてしまう。

個別に賛同する分にはどんどんやれば良いしそれはそれぞれの余剰コストで済む。

しかし世間に広く知らしめて募金するとなればそこには纏まったコストを支払う必要が出て、それが妥当には思えない。

でもこんな風に募金のコストパフォーマンスだったり透明性のことを話題に上げれば大抵の場合ヒステリックに「良い事」を非難するとは何事だという論調の反論が返ってくる。

環境問題におけるリサイクルとか温室効果ガスとかの問題にしても研究者によって意見が対立していてどれが尤もらしいかという判断すらついていない状況だということを説明するだけでやっぱりヒステリックな反応。

結局彼らは良い事として外から与えられている物を無批判に受け入れてしまいそこに疑念を挟むこと自体が悪であるという価値観なのだろう。